2005年02月06日

松本城の城主、石川数正(2)

何故、彼が家康の下を去ったかを考える前に、石川数正とはどんな人だったのかを、簡単に紹介します。

彼は家康が人質として辛酸を舐めた時代から出奔するまで、家康の有能な家臣として仕えていました。武勇だけでなく、 三河武士が苦手な分野である外交術にも長けた武将でした。

織田家に近づき清洲会盟を成立させたり、家康の嫡男である信康を今川方から奪還したのも、彼の功績だといいます。この功績から、 数正は西三河筆頭という地位を得ました。西三河の拠点は信康がいた岡崎城です。しかし、この信康奪還が、数正の人生に微妙な影を落とします。

信康は、織田信長の意を受けた家康の命で、自刃させられてしまうのです(この事件にも諸説ありますが、ここでは触れません)。 命がけで今川方から取り戻した信康が、殺されてしまう…。数正は、さぞ無念であったでしょう。

その後、「小牧長久手の戦い」が起こります。

この戦は、徳川勢が主導権を握っていました。このとき数正は、秀吉との交渉を担当していました。数正は、 天下人である秀吉の威勢を目の当たりにしました。「今の徳川家の実力では、これ以上の戦は危険である」と考えた数正は、家康以下、 家中のものを説得したのだと思います。

しかし、家中の雰囲気は「この機に乗じて、秀吉を倒すべき。」というものでした。そんな中で秀吉に従うよう勧める数正に対して、 周囲は不信感を抱きました。こうして数正は、徳川家にいづらくなってしまったのではないでしょうか。

そこへ、家康の戦力を少しでも削ぎたい秀吉が、数正に対し「果たして家康殿は、数正殿を正当に評価しているといえるだろうか? 私の下で働けば、厚遇するぞ。」などとたきつけたとも、十分に考えられます。

更に言えば、前述の信康の死から、数正が「信康が順当に家督を継げば、自分は間違いなく出世できたのに…。」という思いも、 影響したのかもしれません。

家康の下を去った数正は、旧主である家康の領地と接する松本城に封じられました。本人の希望か、秀吉の命なのかはわかりません。

posted by Dai at 00:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
石川数正というと、山岡宗八の『徳川家康』のイメージが強く、
三河武士の中で唯一、世の中の動きが見えていた人物と感じています。
徳川の内部からだけでなく、当時脅威とも言える豊臣側に入り込むことで
「外部から徳川家を支えたい」
そんな気持ちだったのではないかと思ってしまいます。
Posted by tohfucat at 2005年02月06日 08:06
コメントありがとうございます。
確かに数正は、三河武士の中で、他国の事情を肌で知る人物だったのでしょう。
家康との関係から見て、「徳川家のために…」という説も、かなり有力ですよね。
う〜ん、謎だぁ…。
Posted by Dai at 2005年02月07日 15:55
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